「送っていきましょうか。」

「え、」
ぐらんと目が回ったような気がして、その衝撃と一緒に音が出てしまった。脳とか胸とかそんなところ、殴られたのかと思った。雨はひどさを増した気がする。
返事、しないといけなかった。
次に聞こえたのは私の声じゃなかった。
「あ、そうですね。私もお買い物しようと思ってたので。乗って行ってください!」
鳳瑛二の柔らかな視線が声の主に向く。
「うん、三人で出よう。」
「でも、」
「瑛二さん鍵どこ?」
「どっちの車がいいかな。」
「んーと……」
目の前の会話はなんとでもないという風に進んでいく。彼らの日常に私だけが浮いている。
鳳瑛二越しに見える靴箱の上、植物のツタがあしらわれたフォトフレームの中に二人の笑顔が固められておさまっていた。可愛らしいレースのテーブルマット、アイビーの小鉢の横にちょこんと重なったエンゲージリング。
昔枯らしちゃったんだった。水やりを忘れて。
ぱたぱたとスリッパが遠ざかる音がして、私に向き直った瞳の温度にはっとする。少し下がった眉の下、透けるような紫。
「すみません、なんか勝手に決めちゃって。」
花が風で揺れるみたいに笑う男だ。


「お邪魔します、ありがとう。」
車って全部同じに見えるけど、知らないかたちだなと思った。
革のシートはまだ少し新しい匂いがする。寒いから良かったら、なんて渡されたブランケットはトキヤがアンバサダーをやっているブランドの物だった。肌触りが良くて、人差し指で何度か撫でる。
流行りの洋楽がかかっている。
「あれ、最寄ってあそこで合ってました?」
助手席の彼女の口から流れ出た駅名は嶺二のマンションの最寄りを指した。もう、思わず苦く笑ってしまいそうになったのを押さえつけたら肯定が口をついて出た。遠雷の気配に怯えている。

結局、ひどい雨だから、そう言ってマンションのエントランスまでつけられてしまった。他愛無い会話、相槌はうまくいったはず。
二人に礼を言って車から降り、濡れるのを嫌がるフリをして、自動ドアの前まで少し走った。さっきまでブランケットが乗っかっていた腿に風が通る。
指先が痺れているような感覚、入居者専用のナンバープレートを正しく押せたか自信がなかった。開いたドアからふと振り返ると、幸せのかたちはまだ同じ場所に停まっている。
雨風が吹きつける車の窓越し、影が二つ、ぺこりとこちらにお辞儀したのがわかった。
どろどろのモザイク画みたいに見えた。
軽く手を振る。
エレベーターが早く来ることを願いながら。





嶺二の部屋の扉を開けると人感センサーが音もなく玄関と廊下を照らす。
瞬間、包まれる部屋の匂いと室温に安心して吐き気がした。背後でロックのかかる音。
私なにしてるんだろう。
本当はここでうずくまっていたかったけれど、今すぐここを飛び出さないといけないけれど。
できたのは荷物を玄関に放り出してシャワーを浴びることだった。
嶺二のお気に入りのスクラブ、ジャスミンの香りだ。



紅茶を濃く淹れすぎた。
ソファの布地をふくらはぎでなぞる。他人行儀な無地の天井を見つめてどれくらい経っただろう。
嶺二の家はいつだってどこだって同じ室温で、そしてそれは私にとっての快適な温度で、保たれている。
いっそ気味が悪いくらいに。
四季の死んだ部屋。きっと天国と同じ。
雨音は遠く、秒針は滑るばかりで音を立てない。時折、仕方なく加湿器の水がこぽんと動いて、またそれきり。
目を瞑れば小さく耳鳴りが続いている。自分の脈の音で眠るのには飽き飽きした、生きてるってわざわざ言われても困るし。

ガチャン

神様ってやっぱり意地悪するんだって思う、深く息を吸い込んでから体を起こして、手櫛で前髪を直した。
足音と一緒にハミングのオンユアマークが聞こえてくる。
「おかえり。……早かったね。」
「ただいま〜。打合せ、上手くまとまってさ〜あ。
やっぱアイアイがいるとスムーズだよねえ。」
私の荷物を片手に持った嶺二は私に向かってぱっと笑顔をつくった。
「藍くん」
「そそ、次のお仕事一緒でね。あとほら龍也先輩の馴染みの、ピアニストの先輩も。」
「へえ。」
冷蔵庫に差し入れを仕舞う嶺二の動作を意味もなく目で追う。鼻歌はいつのまにか止まっていた。私の後悔が反省に変わるのも時間の問題。


部屋着に着替えた嶺二がソファに腰掛ける。自分の腿を軽く叩いて、私を見た。単純なパブロフ。嶺二の上に向き合って座る。甘えるのも負けた気がして、甘く傷つく気力もなくて、ただ俯いた。前髪伸びてて助かった。
もう何もかもに許されていた時間は終わったっていうのに。賞味期限の長すぎるメランコリックをつかまされた私たちの末路。
嶺二に伸ばさなかった腕を指先でなぞられる。嶺二は私の傷を治そうとしないけれど、気づいてるって教えてくれる。
「嫌んなっちゃったね。」
「…………。」
よしよーし、そう言ってわざとらしく、でも体重を乗せながら抱きしめられる。憂鬱と同じ抱き方だった。だから抱き返すのを躊躇った、だから抱きしめ返したかった、ひどい。
どんな顔してるのか知らない。
「んもう、仕方ない! ご機嫌ナナメの子はもう、
ねんねだよっ」
「……ねえ変な言い方しないで、あ、ちょっと!」
ぎゅうともう一度力を込められた体が宙に浮く、思わず嶺二にしがみついた。立ち上がった嶺二が体を少し揺らして私を抱き直す。
「はーい出発〜〜」
肌の匂い、同じで嬉しかった。
嶺二の歩く振動でビートルの助手席を思う。
「キミって、冷たくて気持ちいい。」
寝室のドアを開け、体をふと離した嶺二が独り言みたいに呟いた。
緩やかに体に絡みつく腕、指先で背骨をなぞられてくすぐったい。
そのままゆっくり、ベッドに寝かされていく。剥き出しの脚がシーツに触れて、その温度に体がすくむ。
背を軽く反らせ目一杯腕を伸ばして嶺二の首に縋りついた。嶺二がくすっと笑う。
「いや?」
返そうとした言葉は重力に追いつけなかった。

そっと、

翼の名残がシーツに触れる。
私は天使じゃないって、女神でもないって。
ひやりとしたシーツが直接伝えてくる。薄いシャツ一枚なんて最初からなかったみたいに、冷たさが皮膚を侵蝕していく。
私の背を支えていた嶺二の手のひらがするりと抜けていった。置き去りにされる。そんな錯覚に叫び出しそうになる喉を必死に堪えている。
背が落ちる。解剖台、そう思う。
「嶺二」
嶺二に翼があるならもぎ取ってやるつもりで爪をたてる。
私と彼を隔てているのは同じ布一枚なのに、嶺二に傷なんてつかないのが憎かった。嶺二が意図を理解したことも。
「悪い子」
「うん。」
曖昧な私たちでいないと。
まだ自分のことを許せないから。
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