人は食べたものでつくられている、なら。
「ねぇ靴脱いで良いかな。」
「気つけろよ、ガラスとかあるかもしんねぇから。」
「んー、平気ー。」
歩きづらそうにしていたサンダルを脱ぎ捨て、女は砂浜を数歩駆けた。きめ細かな砂の感触を楽しんでいるらしい、真っ赤なペディキュアが隠れては浮き上がってくる。あいにくの曇り空。雲の隙間から所々差し込む光が海を細く貫いている。
潮風が彼女のワンピースを膨らませて去っていった。おろしたての白が眩しい。
「蘭丸〜、」
こっち、と手招きしている。そのまま後ろ向きで歩いたせいで女の足がもつれた。
あ、と俺の口から母音がこぼれ、間に合うはずもない右手が持ち上がる。それと同時に、わあとかきゃあとか言って、数歩その場でバタバタやり、なんとかバランスを持ち直してあいつはよろよろ歩き出した。一人で笑っている。
「危なっかしいんだよ! あんまはしゃぐな!」
よく言われる、そう言って笑う。白が忙しく踊った。彼女が放り出したサンダルを回収して、片手に引っ掛けて歩く。待つつもりはないらしい。行くあてもないだろうに。少し歩みを早めた。
突然海に行こうと言い出した。
水に濡れることを嫌うヤツだから、どういった風の吹き回しかはわからない。実際、波打ち際に近づこうとはしない。雨を降らさなかっただけ及第点だ。
時折思い出したように足を止め、帽子のつばを軽くつまんで沖の方をじっと見つめている。
水面は曇り空を吸い込んだ色をして重くどこまでも続く。それでも強弱を変えながら打ち寄せる波の音は、どこか居心地が良い。不思議だ。
女は屈んで砂浜をいじっていた。
剥き出しの肩はどこか自暴自棄に見える。
夏はもう終わるってのに。
「なんか拾ったのか。」
「シーグラス。見て、ねえ、蘭丸も拾って。」
立ち上がってグラスについた砂を払い、海に向かって数個、透かした。鋭いきらめきは失われたガラスが、ぼんやりと光を通す。柔らかにくすんだ青や緑、白。
琥珀糖に似ている。
♯
「疲れた! 休憩。」
その場にふっと下ろそうとする女の腰を慌てて引き寄せる。
「あ、オイ待てそのまま座んな。汚れるだろ、白。」
「いいよ、別に。」
「良かねぇよ。あー、ここ座れ。」
海を正面にどすんと砂浜に胡座をかいて、自分の脚をぱんぱんと叩く。女は珍しく少し迷ったように目を動かしてから、じゃあ遠慮なく、そう言って近づいてくる。猫が居心地の良い場所を探すようにしばらくもぞもぞ動いていたが、俺の腿に横向きに座った。
乗っかってきたその質量は心許ない。
日もだいぶ落ちた。目の前の体、低い体温を想像して思わずその肩を抱きそうになるが、俺の腕は宙をかいてそのまま後ろ手をつく。舌打ちを飲み込む。
女は拾い集めたシーグラスを片手に乗せてしゃらしゃらやっている。ふいにその中から緑のをひとつ、つまみ上げた。同じ色が施された爪の先で歪な形をなぞっている。楽器を拒絶するような指先だと思った。言い訳か、恨みか、反抗かはわからない。
ただ、悲しみでなければいい。そう思う。
俺はお前の歌、嫌いじゃなかった。
固められた爪先で撫でられていたシーグラスが、当たり前のように、そのまま彼女の口元に運ばれた。小腹が空いたからポケットの飴を食べた、みたいに。
あまりにも自然の動作。
ああこいつはこれを食べて生きてんだ、だから、なんて、一瞬錯覚して、彼女の口内でからんと音が鳴って我に返る。
「おま、何してんだバカ!」
口の中でかろかろと転がしている。今にもごくんと上下しそうな喉が恐ろしい。
女はこちらに向かってわざと首を傾げて、いたずらに口角をあげた。そんな顔すんな。
角が丸くすり減っているとはいえ、かなりの大きさはあった。かちかち、奥歯で軽く噛む音がする。その食道を通るか確かめるように。喉元の赤いチョーカーが蠢く数秒後が脳裏をよぎって肝が冷える。
こいつならやりかねない。
女の下顎から頬にかけてをむぎゅ、と掴んだ。
苦しい、というよりは不服、の顔をしている。そんな顔すんな。
「っぶねーだろ! 出せってんだよ!」
少し力を込めふフリをすれば嬉しそうに喉がくつくつ動いた。ダメ押しに睨みつける、降参、そんな風に手の甲をぺちぺち叩かれる。
「出すなら離す。」
手の中で女が頷く。そっと解放してやれば、グラスを軽く咥えたまま、ん、なんて案外おとなしく唇の隙間から出して見せた。気が変わらないうちに、それを指で引っ掴んでその辺に放り投げる。まさか俺にぶんどられるとは思っていなかったらしい、少し驚いて俺を見て、また笑った。
「しょっぱい、あんまりかも。」
「たりめーだろ馬鹿、二度とすんな。」
「嶺二なら良いって言う。」
「趣味悪ぃ。」
「あは、そうだね。」
軽くため息をついて海を見る。
ふ、と沈黙が落ちる。視線を女に戻すと、こちらを黙って見上げていた。お喋りな赤い口紅がすぐに動きだすかと思ったが、その気配はない。
女と俺の数十センチの距離が急に意識に入り込んでくる。布を隔ててやっと伝わった体温も、吸い込んだ空気の音も。心拍数に先に負けたのは俺だった。
「なんだよ。」
「ううん。」
ぴょんと俺の上から飛びあがってワンピースの裾を直した。本能は離れた人肌を寂しさと捉えて憎い。
俺も立ち上がり、誤魔化すように伸びをする。
数歩、歩いてからこちらを振り返った女を、潮風が煽る。
「ありがと蘭丸、嬉しかった。」
流れる真っ白なワンピース、風の行先を示す帽子の赤いリボン。
世界が音楽だとして。
俺は初めて世界の休符を聞いた。
この世って何小節で出来てるか知らない。
スローモーションなんて生やさしいもんじゃなく。
今。
お前が休符だったから。つらくてもうるさくてもおそろしくても、お前も音楽で。
だから俺にも必要で。
「帰ろっか。」
波の音。心臓、空、呼吸。
何か言わないといけなかった。お前が望んでる言葉と違うことくらいわかっているけれど。
「作ってやるよ、琥珀糖。」
分かり合えなくても良い、それでも人は信じ合える。同じじゃなくても。怯えていないで。そんな思いは、きっとまだ伝わらない。
「え、やった!ねえいつ?今日?」
「ハァ!?ガキかよ。」
「じゃあ明日?」
「だから急なんだよ、いつも。」
「蘭丸が作るって言った。」
「そりゃ作るけどよ……。」
きいきい言っているその肩に、俺のアウターを被せる。また不思議そうにこちらを振り返った。
らしくないのはどっちなんだろう。
「蘭丸っていい匂いする。」
きっと忘れられない。
それが少しだけ嬉しくて、ひどい怪我だと思った。
「ねぇ靴脱いで良いかな。」
「気つけろよ、ガラスとかあるかもしんねぇから。」
「んー、平気ー。」
歩きづらそうにしていたサンダルを脱ぎ捨て、女は砂浜を数歩駆けた。きめ細かな砂の感触を楽しんでいるらしい、真っ赤なペディキュアが隠れては浮き上がってくる。あいにくの曇り空。雲の隙間から所々差し込む光が海を細く貫いている。
潮風が彼女のワンピースを膨らませて去っていった。おろしたての白が眩しい。
「蘭丸〜、」
こっち、と手招きしている。そのまま後ろ向きで歩いたせいで女の足がもつれた。
あ、と俺の口から母音がこぼれ、間に合うはずもない右手が持ち上がる。それと同時に、わあとかきゃあとか言って、数歩その場でバタバタやり、なんとかバランスを持ち直してあいつはよろよろ歩き出した。一人で笑っている。
「危なっかしいんだよ! あんまはしゃぐな!」
よく言われる、そう言って笑う。白が忙しく踊った。彼女が放り出したサンダルを回収して、片手に引っ掛けて歩く。待つつもりはないらしい。行くあてもないだろうに。少し歩みを早めた。
突然海に行こうと言い出した。
水に濡れることを嫌うヤツだから、どういった風の吹き回しかはわからない。実際、波打ち際に近づこうとはしない。雨を降らさなかっただけ及第点だ。
時折思い出したように足を止め、帽子のつばを軽くつまんで沖の方をじっと見つめている。
水面は曇り空を吸い込んだ色をして重くどこまでも続く。それでも強弱を変えながら打ち寄せる波の音は、どこか居心地が良い。不思議だ。
女は屈んで砂浜をいじっていた。
剥き出しの肩はどこか自暴自棄に見える。
夏はもう終わるってのに。
「なんか拾ったのか。」
「シーグラス。見て、ねえ、蘭丸も拾って。」
立ち上がってグラスについた砂を払い、海に向かって数個、透かした。鋭いきらめきは失われたガラスが、ぼんやりと光を通す。柔らかにくすんだ青や緑、白。
琥珀糖に似ている。
♯
「疲れた! 休憩。」
その場にふっと下ろそうとする女の腰を慌てて引き寄せる。
「あ、オイ待てそのまま座んな。汚れるだろ、白。」
「いいよ、別に。」
「良かねぇよ。あー、ここ座れ。」
海を正面にどすんと砂浜に胡座をかいて、自分の脚をぱんぱんと叩く。女は珍しく少し迷ったように目を動かしてから、じゃあ遠慮なく、そう言って近づいてくる。猫が居心地の良い場所を探すようにしばらくもぞもぞ動いていたが、俺の腿に横向きに座った。
乗っかってきたその質量は心許ない。
日もだいぶ落ちた。目の前の体、低い体温を想像して思わずその肩を抱きそうになるが、俺の腕は宙をかいてそのまま後ろ手をつく。舌打ちを飲み込む。
女は拾い集めたシーグラスを片手に乗せてしゃらしゃらやっている。ふいにその中から緑のをひとつ、つまみ上げた。同じ色が施された爪の先で歪な形をなぞっている。楽器を拒絶するような指先だと思った。言い訳か、恨みか、反抗かはわからない。
ただ、悲しみでなければいい。そう思う。
俺はお前の歌、嫌いじゃなかった。
固められた爪先で撫でられていたシーグラスが、当たり前のように、そのまま彼女の口元に運ばれた。小腹が空いたからポケットの飴を食べた、みたいに。
あまりにも自然の動作。
ああこいつはこれを食べて生きてんだ、だから、なんて、一瞬錯覚して、彼女の口内でからんと音が鳴って我に返る。
「おま、何してんだバカ!」
口の中でかろかろと転がしている。今にもごくんと上下しそうな喉が恐ろしい。
女はこちらに向かってわざと首を傾げて、いたずらに口角をあげた。そんな顔すんな。
角が丸くすり減っているとはいえ、かなりの大きさはあった。かちかち、奥歯で軽く噛む音がする。その食道を通るか確かめるように。喉元の赤いチョーカーが蠢く数秒後が脳裏をよぎって肝が冷える。
こいつならやりかねない。
女の下顎から頬にかけてをむぎゅ、と掴んだ。
苦しい、というよりは不服、の顔をしている。そんな顔すんな。
「っぶねーだろ! 出せってんだよ!」
少し力を込めふフリをすれば嬉しそうに喉がくつくつ動いた。ダメ押しに睨みつける、降参、そんな風に手の甲をぺちぺち叩かれる。
「出すなら離す。」
手の中で女が頷く。そっと解放してやれば、グラスを軽く咥えたまま、ん、なんて案外おとなしく唇の隙間から出して見せた。気が変わらないうちに、それを指で引っ掴んでその辺に放り投げる。まさか俺にぶんどられるとは思っていなかったらしい、少し驚いて俺を見て、また笑った。
「しょっぱい、あんまりかも。」
「たりめーだろ馬鹿、二度とすんな。」
「嶺二なら良いって言う。」
「趣味悪ぃ。」
「あは、そうだね。」
軽くため息をついて海を見る。
ふ、と沈黙が落ちる。視線を女に戻すと、こちらを黙って見上げていた。お喋りな赤い口紅がすぐに動きだすかと思ったが、その気配はない。
女と俺の数十センチの距離が急に意識に入り込んでくる。布を隔ててやっと伝わった体温も、吸い込んだ空気の音も。心拍数に先に負けたのは俺だった。
「なんだよ。」
「ううん。」
ぴょんと俺の上から飛びあがってワンピースの裾を直した。本能は離れた人肌を寂しさと捉えて憎い。
俺も立ち上がり、誤魔化すように伸びをする。
数歩、歩いてからこちらを振り返った女を、潮風が煽る。
「ありがと蘭丸、嬉しかった。」
流れる真っ白なワンピース、風の行先を示す帽子の赤いリボン。
世界が音楽だとして。
俺は初めて世界の休符を聞いた。
この世って何小節で出来てるか知らない。
スローモーションなんて生やさしいもんじゃなく。
今。
お前が休符だったから。つらくてもうるさくてもおそろしくても、お前も音楽で。
だから俺にも必要で。
「帰ろっか。」
波の音。心臓、空、呼吸。
何か言わないといけなかった。お前が望んでる言葉と違うことくらいわかっているけれど。
「作ってやるよ、琥珀糖。」
分かり合えなくても良い、それでも人は信じ合える。同じじゃなくても。怯えていないで。そんな思いは、きっとまだ伝わらない。
「え、やった!ねえいつ?今日?」
「ハァ!?ガキかよ。」
「じゃあ明日?」
「だから急なんだよ、いつも。」
「蘭丸が作るって言った。」
「そりゃ作るけどよ……。」
きいきい言っているその肩に、俺のアウターを被せる。また不思議そうにこちらを振り返った。
らしくないのはどっちなんだろう。
「蘭丸っていい匂いする。」
きっと忘れられない。
それが少しだけ嬉しくて、ひどい怪我だと思った。
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