ぬるくなったバスタブのお湯と私の意識を、ゆっくりと波が立たないように撫ぜたのは侑士の声だった。
「自分、テレビ消し忘れとるで」
バスルームの扉から入ってきたその声が、床に転がった通話中の携帯電話から少し遅れてもう一度聞こえた。
重い瞼をうっすらと開けて侑士と目を合わせる。つけっぱなしにしていたテレビの音が夜の空気に溶けていた。
「綺麗。」
私の口から出た言葉が泡になって、バスルームの天井にぶつかって消えた。お湯をたっぷりと含んだ重たい衣類が心地よい。心臓が億劫に鼓動する度に手首からバスタブを赤く染めていく。私から金魚がどんどん生まれているみたいだった。私の時間が、中身が金魚に変わっていくみたいだった。額に張り付いた前髪を丁寧に分けてくれた侑士の指先は、夜の中で風を切ってきたようで冷たい。
「いってしまうん?」
侑士はいつだって、ついさっきまで冬の夜に潜っていて、底から何も拭わずに陸に上がって来たようなんだ。侑士となら夜の底まで潜っていける。星が霞むほどに青く深く、静かな夜をあちこちにまとった侑士は美しい。
「私は弱いから、」
今まで陸で息をするのは苦しかった。
侑士がいれば正しい場所で呼吸が出来る気がした。
「侑士がいても生きていけないけれど、侑士がいれば消えてゆけるわ。」
夜の隙間から覗くいつもの侑士の月みたいに透き通ったその目が、ふっと変わった。
「侑士」
今の顔、もう自分で腕を持ち上げるには重すぎる。意思を汲み取った侑士が湯船から私の腕を掬って自分の頰に当てた。あたたかかった。
「もっと見せて。今の顔、永遠、みたいだった。」
ふふ、と笑うのに合わせてまた手首からゆらりと赤く曲線を描いて、金魚が漏れ出して泳ぐ。侑士が私の手の甲をするりと撫でて、掌に口づけた。ゆっくりと優しい闇が迫ってきて、今度は唇に触れた。ずっと奥まで静かであたたかい夜とキスをする。このまま夜に沈んでしまえる。
「もう少し」
体は空っぽになっていって、息をするのが軽い。
「もう少しだけ生かして欲しい」
あなたの側で。今夜きりよ、今夜きり。今夜だけなの。
「ええよ」
世界が許してくれなくても、侑士は拒まない。私はやっと楽に呼吸ができる。
「ゆっくりいったらええよ。」
もう一度キスをした。
「よう今まで頑張ったな。」
侑士、あなたがいたから、やっと私は。
目を閉じる。侑士が触れている左手だけがいつまでもあたたかかった。



【WBGM:水中都市/ねごと】
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