ぽちゃん。右手に持ったティーカップが角砂糖の音を立てて、そこから何かが覚めた。
「砂糖は?」
ぽちゃん。そう聞いた目の前の男は手に持っている使い込まれたシュガートングと同じ色。
「そういう事は入れる前に聞くんだ。」
「ピヨ」
ぽちゃん。ぽちゃん。
「もう結構だ。」
ぽちゃんぽちゃん、ぽちゃん。
「仁王。」
ぴたり。
紅茶が溢れんばかりの角砂糖を運び続けていた仁王の動きが止まった。
「もっと早く言わなくっちゃあ、」
ぽちゃん。
紅茶がついに溢れて、仁王が猫みたいな目で俺を見た。
「もう戻せん。」
つう、飴色が真っ白いカップを伝って、ソーサーに落ちた。これ以上零れないように慎重にカップを置く。風が吹いた。俺と仁王と、周りを囲む木々を通り過ぎて行った。
「無くなってしもうた。」
シュガートングをことんとテーブルに落とした仁王が俺に手を伸ばしてきた。
「気がついた?」
先刻の風のように俺の髪をかき混ぜ、ふと笑って立ち上がる。
「ほんじゃ、行こうかの。」
「待て、」
どこへ。仁王の背中を追おうと立ち上がり一歩踏み出す。足の裏に、ふわり。ちくちくした感触がして、俺は今裸足なのだと気づいた。振り返る、晴天の空に大きな満月が浮かんでいる。
「参謀」
こっちじゃろ、ポケットに手を突っ込んだ仁王が立ち止まって俺を呼んでいる。一歩、一歩進む度に草の匂いが柔らかく鼻腔を満たしてくる。深い木々の森に入った仁王が2、3歩先を歩いて、木の根を踏んだ足が滑らかな木の皮の感触を伝えてきて心地が良かった。
「なぁ仁王、ここは…」
「優しい」
「え?」
「参謀はちゃんと優しい、大丈夫じゃ。」
「仁王、」
「ほれ、みてみんしゃい」
くるりと俺に向き合った仁王が俺に道を開けて顎で指す。森の出口に光が溢れて眩しくて、何も見えない。仁王がとんと背中を押した。片足が森からでて、そこは小さな池だった。蓮の花が一面に浮かんで、綺麗だ。
「はすのはな」
「あぁ、綺麗だな。」
「いっぱい泣いたんじゃな。」
池の底が見えるほど透明な水面に映った仁王と目が合った。仁王が揺れて、消えた。
「魚がいるのか。」
「赤いのも青いのも、出会った数だけ。」
池に近付いた仁王がしゃがみこんで、水を両手で掬ってこちらを向いた。ぴんと背筋が張る、心の中を撫でられたような感覚。逆撫でするものでなく優しく、愛しむように包むように触れられたようで。
掬った水を、ごくん、仁王の白い指の隙間と口の端から透明が一筋落ちて、涙のように見えた。
「しょっぱい。」
ぺろりと舌を出した仁王がそう呟いて、目の前の蓮に口づけた。
「本当の孤独なんかなくて、寂しいのう」
ふっと雲が月を隠して、空がさっと夜に染まった。星屑が蓮の池に零れ落ちて水面に反射する。星の光をまぶした仁王は美しい。月のようだった。
「蓮二、」
仁王の口が言葉の形に歪んだのに、瞬間世界から音が消えて、慌てて踏み出した足が草に沈み込んでもつれた。ずぶりと体は沈んでいくのに、意識はふっと浮き上がっていく。



「参謀?」
はっとして、目の前の仁王が俺を覗き込んでいた。目が覚めたんだと、そう気づいた。
「すまない、眠っていたか?」
夜がすぐそこまで迫ったファミレス。外は霧雨で、曇っている。
「プリ」
肯定か否定か、どちらとも取りかねる音が返ってきて、ぽたり、手元のノートに水音が跳ねた。
「参謀」
ホットミルクから手を離した仁王が腕を伸ばして、頰に触れた。彼の親指が何かを拭う。車のヘッドライトが窓ガラスの雨粒に反射した。仁王がゆっくり呼吸して、言葉を混じらせた。
「俺にはわかる。」
「何が、」
頰に添えられたままの仁王の手に触れて、俺は涙を流したんだと知った。人間の温度同士が触れ合う、わからない、これはわからない。ただ何故かひどく安心する。
「キスしようか?」
そう言って狐のように笑った仁王に微笑み返した。
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