水の感触を知っているか。

グラスやバスタブに張られた水ではない。
噴水から静かに滑り落ちる薄い膜、触れればたちまちのうちに途絶え、俺の指先を濡らす。確かに存在するはずのそれは、たった数センチの距離をつめれば跡形もなく消えてしまう。
水の流れの感触を、俺は一生知ることができない。

「おい馬鹿やめろやめろ!」
きゃっきゃとはしゃぐ声に宍戸の怒号が飛ぶ。
「亮ちゃんかわE〜!」
「ははっ、先行くぜ!」
バタバタ音を立てて部室を飛び出したのは赤と黄色の幼馴染。
「ったくあいつら何年やったら飽きんだよ……」
残されたのは白紙のままの部日誌と、長い髪を雑なツインテールに結ばれた宍戸。
文句を言いつつペンを走らせて、邪魔くさそうに髪ゴムを取る。解放された長髪が大きくゆれる。
「結んでやろうか。」
「は?」
ふっと口からこぼれ落ちた言葉に宍戸が驚いて振り向くが、一番驚いているのは俺だ。一度空中に出た言葉は回収しようがない。
「俺様が結んでやるよ。」
精一杯に挑発的な笑みを浮かべることができたろうか。宍戸が少し怪訝そうな顔をしてから、俺に髪ゴムを投げ渡した。
「変な髪型にすんなよ。」
からかうような口調で言って、部日誌に向き直る。髪を梳こうとした手がはたと止まった。手入れの行き届いた黒髪が自由に流れて、それに反射する光が艶やかに形を変える。カラスの羽のような光沢を持って流れる髪は、たしかに水の膜と同じもので出来ているに違いない。
触れれば、消える。
「やはりやめておく。」
「アァ?」
んだよお前から言ったくせに…などとぶつぶつ言いながら、俺の手から髪ゴムを引ったくって口に咥えた。手早く両の手で髪をまとめて高い位置で一つにしていく。さらさらと揺れる墨の川の流れをかき分ける宍戸の指先。お前は知っているのか。その感触を、触れても消えることのない流れを、お前は。揺れるそれを左手で掴み、咥えたゴムで器用に結んでいく。束ねられた髪がおとなしくなる。軽く振られた宍戸の首の動きに合わせてせせらぎ、囁く。
「宍戸」
「ん?」
もう一度伸ばそうとした手を、白くなるほどにぎゅっと結んだ。
「綺麗な髪だな。」
俺が触れられないほどに。
それは美しかった。
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