「跡部おかえり〜!!!」
都内の飲屋街、指定された店は日本酒と刺身の美味いと評判の居酒屋で、案内された個室のドアを開けるや否やずっと変わらぬ顔が一斉に振り向いて言う。料理の散らかり方と溢れ出る笑い声から、もう飲み会も終盤であることがわかる。随分待たせてしまったようだ。
「おう、待たせたな」
コートを滝に渡しながら靴を脱いで畳に上がる。まーた高いコートなんて着ちゃって、などと言いながらハンガーに引っ掛けているが、脱ぎ散らかされている靴の中でただ1つきっちりと揃えて置かれているこのバーバリーのブーツは滝のだろう。贅沢嗜好はお互い様だ。
「遅かったやん、迷子にでもなった?」
イギリスでの大きな試合がひとまず終わり、まとまった時間ができたので久しぶりに日本へ帰ることにした。そう忍足に伝えるとそのまま飲みの誘いを受けたのであった。差し出された忍足の手を強く握って再会の挨拶をする。当の俺の到着時間についてだが、飛行機も予定通り発着しここまでも迷わずに来た。問題は空港で大量のファンに取り囲まれたことにある。
「うわっ嫌味な奴。聞かなきゃよかったぜ」
俺の言い訳に向日が枝豆をひょいと口へ放った。目で空いた座布団を探していると思わぬ奴からの勧誘を受けた。
「おい跡部、ここ来いよ。」
ぼふぼふと埃が立つほどに隣の座布団を叩くのは宍戸だ。会うのは5ヶ月ぶりだろうか。また髪を伸ばし始めたようで、少し伸びた髪を無理矢理後ろで結んでいる。ありがたく誘いに乗ることにする。
「見たぜ、この前の試合。2セット目のスマッシュが良かった」
俺が座るなり、そんなことを言いながら俺のグラスにビールを注いできた。今日の宍戸は機嫌が良いようだ。確かに今回の大会は成績も上々だったので、素直に喜んでくれたことに礼を言う。改めて全員で乾杯をしてから残った料理をつまむ。申し訳程度に残された刺し身に醤油をひたしていると、ジローが物欲しそうな目で見てきたのでひと切れやった。
「悪ぃな跡部、刺し身はジローがほとんど食ったし唐揚げも岳人が食った。なんか頼むもんあるか?」
ジローにデコピンを食らわしながら宍戸が問う。言葉に甘えてはまちと海老の刺し身を追加した。さらにビールを飲み干した俺にお猪口まで持ってきて日本酒を注いでくる始末だ。
「お前こんなに俺に対して優しかったか?熱でもあんじゃねーの。」
皮肉のつもりで言ったが、宍戸は特に気にもしていない様子でテキパキと注文を済ませている。てっきりつっかかってくると思ったが…ぷっ、と滝が小さく吹き出す音が聞こえたのでそちらを向くと、滝の隣に座っている忍足が空の日本酒の瓶を掲げた。…なるほど。宍戸亮という男、とにかく酒に弱い。一定の量までは人並みだ。しかしこいつの中の基準値を超えてからは面倒なことになる。以前教員採用後に先輩職員に誘われた飲み会で酔い潰れ、岳人やジローが迎えに行くという偉業を成し遂げたこともある。本人が体育会系のノリに巻き込まれやすいという性質も持ち合わせた結果であろう。今回は身内での飲み会だから、ハメを外したに違いないし誰も咎めなかったのも頷ける。タチが悪いのは滝で、酔いの回った宍戸を楽しんでいるようだ、次々と空き瓶を増やしていく。
それからは終盤だと思っていた会合も話に花が咲けばなかなか終わらない。お互いの仕事の話に昔の話、次に会うときは後輩も交えての食事にしようと約束をしたところでお開きに……となったのだがここで問題だ。
「うー……おれはまだのめるって、」
宍戸が見事に潰れ、滝が最新型のタブレットでめちゃくちゃに写真を撮っている。すでに人の力を借りなければ歩くこともままならない宍戸は俺の肩に絡みついて離れない。岳人まで写真を撮り始めたのでSNSへの投稿を固く禁じた。そしてもう一つ問題が。こいつの介抱役である幼馴染達が足早に帰宅、明日から商店街の大売り出しが始まるらしい。商店街から離れた所に安マンションの一室を借りている宍戸の自宅に泊まる時間がないと謝って忙しなくタクシーを拾った。だったらこんな時間まで飲むな、飲ませるなという話だがあいつら2人は酒に強いうえに悪ノリがすぎるのは幼馴染の絆とも言うべきか…。今更何を言っても無駄だ。
「俺の家に酔っ払い入れるのヤダ。景吾くんどうせホテルとってるでしょ?よろしく〜」
じゃあまた連絡ちょうだい、そう言って宍戸の鼻をぎゅっとつまんでから歩き出し、忍足も片手を上げて笑った。
「俺も明日早番やから、跡部よろしく頼むわ、ほなな」
………………。半ば液体のようになってウンウン唸っている宍戸。肩を揺すって担ぎ直してからため息をつく。
「仕方ねぇ、今日のお前の寝床はスイートルームだ。」
聞こえているのかいないのか、宍戸はへへ、と笑って俺に体重をかけた。
タクシーに乗るとすぐにこいつは寝息をたてはじめた。吐くかと思ったが案外いい子にしてくれて助かった。ホテルのボウイが俺の荷物を運び出している間に爆睡している宍戸の頬をぺちりと叩いて起こし、肩につかまらせて最上階へ向かうエレベーターへやっとのことで乗り込む。いくら昔より身長差と体格差はあれど、立派な成人男性1人を支えるのは骨が折れる。向日とジローが2人がかりで介抱するのも納得だ。
予約していた部屋にキーを通して荷物を運び入れてもらう。ドアを閉めると近くのソファに雪崩れ込んだ宍戸がそのまま眠ろうとしたので慌てて腕を引き上げてベッドに放り込んだ。ふわふわ、なんて呟いた宍戸がクッションを抱えてぎゅっと潰した。風呂に1人で入れるのは危ないな。水を飲ませて寝かせることにする。なにやらへらへらと1人で喋っている宍戸に水を持って行き、背とベッドの間に片手を差し込んで起き上がらせる。
「ん…もー飲めねぇよあとべ…」
「水だ、飲め。っておい!」
宍戸のグラスを持つ手がぐらりと傾き、ぼたぼたと宍戸の胸元を濡らした。とりあえず宍戸の手に俺の手を添えて口元に誘導し水を口に含ませる。こくり、こくりと喉が上下して、やっと飲ませることに成功した。ひとまず安心だ。口の端から漏れた水がさらに襟を濡らしている。ホテルのクローゼットから麻のパジャマを一着とりだして宍戸に渡す。
「俺がシャワーを浴びる間に着替えておけよ。」
濡れたままだと気持ち悪いだろ、わかったか、念を押すと宍戸は小さく首を縦に振って濡れた衣類を剥ぎ始めた。これでいい。若干不安を残しつつシャワールームへ急ぐ。
バスローブを羽織ってベッドルームへ戻ると、案の定宍戸は上半身の衣服を脱ぎきったところで力尽きていた。 昔無茶をした名残は健在で、少し汗ばんだ体は傷こそついてはいるがしなやかで強靭だ。
「おら、起きろ宍戸。風邪ひくぞ。」
軽く頬を叩いて声をかける。
「ぅ…ん……?」
薄く開いた宍戸の目がゆっくりと焦点を結び、俺を捉えてふふふと笑った。
「あとべ、俺はさぁ………っと……で」
呂律が回りきっていないせいで後半の読解は不能だ。ゆらゆら空中を掻いた宍戸の手が俺の手を掴み、宍戸の頬がすり、と寄ってきた。すべすべした肌が湿った肌に心地良い。
「飲みすぎだぞお前、ほら早くこれ着て寝ろ!」
強引にパジャマで宍戸をくるむように着せる。ズボンを履かせている時に背中に宍戸が顎を乗せてきた。まるで犬か猫だ。思い切り体を起こして退けると宍戸がゴネたので頭をわしわし撫でてやった。気持ちよさそうに目尻を下げる宍戸の表情は普段からは想像のつかないほどに蕩けている。枕の位置まで宍戸をずりずりと押して移動させ、寝ろ、と声をかけて荷物の整理にとりかかる。トランクを開け、スマホの充電器を取り出してから翌日に着る予定の服を引っ張り出した。
「跡部」
もう眠ったと思っていた宍戸から音が出た。
「どうした、水か?」
振り返ると少し頭を枕からもたげた宍戸と目があった。目はとろりと溶けていて、ふにゃりと笑って俺をみつめている。ベッドに近づいて宍戸の横に腰を下ろし顔を覗き込んで返答を待つ。
「すき」
「アン?」
くすくすと宍戸が笑い、だから、と続ける。
「好きなんだ、跡部。すき。嘘じゃねぇ。」
「わかったわかった、寝ろ早く。」
頭の中でじわりと染みてきたこの感情を、俺は知っている。気のせいだと信じ込むために宍戸の肩をぐいと押した。
「ごめんな、」
掴んだ肩が思ったよりも強い力で俺を押し返し、宍戸の上半身が起き上がった。驚いてぱっと手を離す。今度は宍戸があはっ、と笑って俺を真っ直ぐ見据えた。とろとろ今にも蜜をこぼしそうな目の中に光るその視線は、やめろ、俺はその意味を、痛いほどに…
「本気なんだ。」
あぁ、この目だ、この目を俺は中学時代から嫌という程見てきた。宍戸が何かを決意している時の、嘘偽りのない、世界で一番透き通った強い視線。こいつは俺のことを好きなのだ。もう逃げられない。誤魔化しは効かない。俺も、宍戸も。
俺が次のアクションを起こすのに時間を要していると、宍戸がベッドの上をよろよろと四つん這いでこちらに近づいて口を開く。
「付き合えとか、そんなこといわねぇから、だから」
とん、と胸に宍戸の熱い吐息がかかる。
「いっかいだけ、思い出くんねぇかな」
ぐ、と力のこもった手が背中に回される。頭の中でまたじわりじわりと広がっていく感情。ああやはりこれは………宍戸が固まった俺の胸から顔を離さないので、おい、と思ったよりも掠れた声をかけて引き剥がすと、かくんと頭が揺れて、一定のリズムで呼吸が繰り返されている。眠ってしまったようだ。これでいい、これでいいんだ。ベッドに宍戸の体を横たえて頭を抱えた。
俺が帰国した理由。一番の理由はこいつのためだ。俺はわからなかった、宍戸のことを俺は好きなのか?イギリスにいて宍戸のことを思い出すことなんてほとんどない。だが、俺が成績に伸び悩んだ時、悔しさで心が孤独な夜、大事な試合の前…いつだって目に浮かんでくるのは宍戸の姿なのだ。最初は中学、高校と見てきた宍戸のがむしゃらに直向きにテニスに挑む姿勢に感化されてのものだろうと思っていたのだが、どうやらその認識と俺の感情にズレがあるようだ。その正体を探っているうちに、俺の頭の中を浸す感情には覚えがあった。
これは、愛に似ている、そう気付いた。
若気の至りだ、友情と愛情の混同だ、そう言い聞かせ続けていったい何年経った?
俺は宍戸が愛おしいのか、俺は宍戸を好きなのか。どうしても確かめたかったのだ。
「…?………さむい…」
俺の体温を失った宍戸が肌寒さに目を覚まし、きゅ、と袖口を掴んできた。布団を引っ張って宍戸にかぶせようとすると小さな抵抗にあう。
「ちげぇ、なぁ、一晩でいいんだ、」
腕を掴んだ宍戸が縋るように言葉を紡いだ。ほとんど閉じかけていてもわかる、あの目をしている。
「頼む。」
「宍戸、」
俺が次の言葉を発するのを、宍戸がまだ回りきらない舌で遮った。
「俺いま、酔ってるから…そのせいにしていいから…!」
ずきんと心臓が痛む。
「何かのせいにしなきゃ、出来ねぇことか、怖いのか。」
口を勝手についてでた言葉に舌打ちをする。なんで俺は怒っているんだ。宍戸に?いや違う、これは自分自身への。
「なんかのせいにしねぇと、困るのは跡部だろ。だから、」
いつだってそうだ、こいつは。他人のために自分を、自分のために自分を犠牲にする。何かを捨てて何かを得てきた男だ、いまさらこの生き方は変わらない。ただ俺は違う。俺となら違う。何も犠牲にしなくても自分を傷つけなくても手に入るものがあると、宍戸に証明できる。
怖がっていたのは俺だろう?宍戸の方がよっぽど勇気も覚悟もあるじゃないか。覚悟はあるか?跡部景吾。こいつを幸せにする覚悟がお前にあるか?
俺は跡部景吾だ、覚悟なんてとっくに決めている。だから帰ってきたんだろう。俺は全てを手に入れる男だ。手に入れさせることだってできる。
「だから、俺のせいにしてくれよ…あとべ」
これ以上無駄な事を喋り出す前に宍戸の顎を掴み唇で口を塞いだ。ぼろりとついに涙をこぼした宍戸が目を瞑って口を開ける。
「ん、………ふ、んぅ」
くちゅ、熱い舌が絡み合うたびに小さく漏れる音がベッドルームにぽつぽつと落ちる。こぼれ落ちる音すらも拾うように食むようなキスをして、ゆっくりと唇を離す。
「宍戸、俺は黙って一晩の誤ちで済ませるほど軽薄な男じゃねぇ。中途半端な気持ちでてめぇの覚悟を受け止めるほどバカじゃねぇ。」
目の端に浮かんでいる大粒の涙に小さくキスをして、愛してる、小さく吐息だけで空気を震わせてから、宍戸の目と真っ直ぐに向き合った。
「責任はとってやる、一生な。」
お互いに見飽きるほどに交わしてきた視線だ、その意味を汲み取れないほどに浅い信頼関係ではない。宍戸の表情がぐにゃと歪んだ。もう一度キスをしようと頭を抱くと、宍戸の唇が先に俺に触れた。お互いの髪をぐしゃりとかき回して、キスはどんどん深くなっていく。息継ぎのためにできた距離で、宍戸が俯いた。
「明日、俺がわすれてたらどうする?」
酔ってんだぞ、まだ不安げに伏せられた、少し青みがかった瞳が揺れている。
「忘れられねぇ夜にしてやる。」
宍戸の体を包みこんで強く抱く。力の抜けた宍戸が大人しく俺の中に収まって小さく首を縦に振った。愛おしい、素直にそう思う。
もう自分に嘘はつかない。これは、愛だ。
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