俺のせいで迷わないように。
片付けきれていない、ポテトチップスの袋や空のペットボトル越し、液晶の笑い声に身を任せている。背は布張りの、この部屋にきて三年になる小さなソファに。
宍戸のアパートは大学のキャンパスから一番近いとあって常に来訪者が絶えない。宍戸自体は物持ちが良い方ではあるものの、様々な客人により(中学から続くテニス部の面子が主なのではあるが)このソファカバーもカーペットも幾度となく芥川クリーニングの世話になって年月に馴染んでいる。
テレビの前の、デジタル時計に内蔵された室温計が少し上がった。ついさっきまでほぼ同じタイミングで隣から聞こえていた笑い声の間隔があいていく。ふと見ると宍戸の頭はかくんかくんと船を漕いでいた。俺の視線に気づいた宍戸がぺちと自分の頰をはたく。
「あー、やべ。ねみ。」
「もう寝よか?」
「んー……なんかまだマジで寝るには早ぇっつーか……ちょっとだけ仮眠。」
よいしょとソファに腰掛けて手頃なクッションを探っている斜め上から、悪ぃな、と声がかかる。
「今のうちに先、風呂入れよ。」
くぁ、と欠伸をして俺に背を向け、ごろんと横たわる。お前が風呂終わったら起こして。そう言ってしんとする気配。
手元のリモコンでテレビの音量を数段階下げた。静けさが一歩、しかし確実に距離を詰めてくる。だんだん深くゆっくりになっていく宍戸の呼吸と弱まった電子の笑い声が静寂から俺の周りを守るように生きて、ほとんど死んでいる。
だらだらと見続けている三時間スペシャルのトーク番組はいつのタイミングで消したって構わないのに、だからこそ電源ボタンに手が伸びない。自分の笑い声も、結局一人きりでこぼせる程ではないのだと知る。テレビ番組はそんな軽さで、自分の感情は重すぎる。だからいつだってやめていい。ただ好きなお笑い芸人が出ているから、なんとなく消せずにいるだけなのだ。明日には忘れてしまえるような小さな笑いのため。ようやく一人きりでくだらない話に思わず笑うため、今みたいに。
「ふふっ。」
起こしてしまっただろうか。
狭いソファの上で背と膝を柔く曲げ、小さく呼吸に揺れる動物的な後ろ姿。にもかかわらず警戒心を解いてこちらに向いた背、その薄い布一枚越しの凹凸が本当に、だめだった。
眠る背の曲線に沿って灰のTシャツを小さく押し上げ、あるいはへこませてその形を浮かび上がらせる。
きっと忘れられない。一生ずっと、呪いのように。
今手を伸ばす先にある感触を知ってしまえば、その指先に全ての記憶がかき集められて詰め込まれる。脳に焼きついた今がフラッシュバックする。
この妙に暑い部屋の温度も、定位置のカーペットの取りきれなかったシミも、昔から変わらない柔軟剤の香り、二人だけの部屋に一人きりの虚しさや、気づき続けていた恋心もきっと全部。覚悟のない指先は弱かった。
さっきまで部屋を占めようと潜んでいた静けさとは違う、何も聞こえない音がして、指の腹にはシャツ一枚に包まれた宍戸の体温が触れた。肩甲骨の間からゆっくりと指先を滑らせる。ごつ、ぼこ、そんな音がするような連なりを優しく。
あたたかな硬さをなぞっていく。
ざらりと柔らかい布の繊維が俺と宍戸を守っている。いきもののあたたかさを染み込ませたこれだけが。
はっとして触れた手を離し、テレビに目を向ける。神経を外側に引っ張ったのは自分のものと同じ着信音が聞こえたからだ。いつの間にか刑事ドラマの放送が始まっている。非通知からの着信を恐る恐るタップする若手女優の手元がアップになったところで、俺はテレビを消した。
静寂はわっと襲いかかってはこない。
小さく呼吸を続ける宍戸の背をもう一度見て、ソファの端にぐちゃっと置かれたブランケットをかけた。
シャワーを浴び終えて部屋に戻ると、宍戸は先程と同じ体勢で背を丸めていた。起こせと言われたので自分もソファに腰かけながら声をかける。
「宍戸」
「……なぁお前さ、」
テレビの電源を入れる前に言葉が返ってきた。
「お前彼女とかいんの。」
リモコンをテーブルの上に戻して、気づかれないように大きく息を吸いこんだ。音にする言葉と思考を切り離すのはずっと得意だった。
「おらんよ、宍戸も知ってるやん。」
「じゃあ気になってるやつとか……いや、あー……うん。」
宍戸がブランケットの礼を言いつつ起き上がった。
「なんや、らしくない質問して。」
悪い癖。心と癒着している部分を切り離せば、痛みを感じないはずなのだ。少なくとも、致命傷には至らない。自分も、相手も。
「そうかよ。」
わかっていた。いつものような、うるせーが返ってこないことも、嘘のつけない顔が何かを隠すように動くことも。
「風呂、空いたで。」
「おう。冷蔵庫に冷たいもん入ってる。」
「ん。」
わからない。正しくないとは思わないが。俺が愛を伝えて何になるだろう、人を傷つけないことは上手くありたい。好きな人間に対してなら尚更。それだけのはずなのに、きっと忘れられない。
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