ふと、目が覚めた。
首もとでぐにゃと柔らかな感触があった。就寝前にガーゼにくるんで宍戸の母に渡された保冷剤だ。ヘッドボード上に置いてある2つの時計をちらりと見ると、針の先の蓄光塗料がだいたい2時を過ぎたところにあった。宍戸がセットしたクーラーのタイマーはとっくに切れていて、扇風機が小さく唸りながら首を振っている。ベッド脇に布団を敷いて眠る宍戸の額にはじわりと汗が浮いていた。
水を飲みに行くついでに新しい保冷剤でも持って来てやろう、汗で張り付いた長い前髪を横に分けてやってから静かに戸を開けて階下へ降りる。
リビングの扉を開けると、ソファの上で眠っていたジョンが耳をぴくりとさせて顔をもたげた。
「お前も飲むか?」
台所にある銀の水受けを持ち上げると、言葉の意味を理解したらしいジョンは大きな欠伸を1つしてソファから降りた。氷をいくつか入れてやり、(宍戸とは違って)利口に待てをしている彼の前に皿を置く。ぺちゃぺちゃ舌が水を叩く音と、製氷機が氷を落とす音が深夜の台所に涼しげに響く。コップに水道水を注ごうと蛇口に手をかけた瞬間、後頭部にぬるく不快な感触がした。
驚いて振り向くと、そこにはニヤリと笑って溶けた保冷剤を俺に押し付ける宍戸。
「よう。」
「起こしたか?」
「いや、寝返りうったら机に頭ぶっけた」
マヌケだな、うるせー。そんなやり取りをして、足元の愛犬に宍戸が話しかけた。
「氷もらったのか、良かったな。」
未だ水に夢中のジョンの頭を、かがんでわしわし撫でている。ふとその手を止めて俺を見た。その顔はイタズラを思いついた子どものように幼く、心なしか光っている。
「なぁ、自販機にジュース買いに行こうぜ。」

「お前俺の履けよ、俺は兄貴の履くから。」
玄関先で紫のクロックスを顎で指された。宍戸は少しだけ大きい紺のサンダルを足につっかけた。
「ジョン、母ちゃん達起きねえように見張っとけよ。」
宍戸が小声で愛犬に伝え、ジョンは任せろとでも言うように胸を張る。ゆっくりと玄関のドアを開け、振動と音が出ないようにこれまたゆっくり閉める。
家から一歩でると日本の湿気が体を包み込んできた。風が吹く。昼間とは違う夜の風、心地がいい。アスファルトから熱が抜けていくような匂いがして、2人分のサンダルが立てるざかざかという音しか世界にない。車の走る音が遠く遠くで聞こえるような気がする。
「跡部、ストップ!」
「アーン?」
電柱の横で、宍戸が俺を制止した。ぼんやりとした灯りに照らされた宍戸の長髪が揺れる。
「あそこに赤い自販機見えんだろ。あそこまで競争。」
「良いぜ、上等だ。」
ふん、と宍戸が挑発的に笑って、スタートの体制をとる。
「よーい……」
じり、アスファルトが小さく音を出す。
「どん!!!」
スタートダッシュは宍戸が一歩速い、肝心なのは中盤だ。夜の風が慌てたように後から追ってくる、夏の空気を振り払うようにして走る。慣れないゴムの感触に足がもつれそうになるが、がむしゃらに走る、深夜の住宅街に似つかわしくない熱戦だ。あと数メートル、まだ少し宍戸の方が前にいる。ぐっと地面を蹴り込んでラストスパートをかけたその時。
「うっわ!!!?」
宍戸のサンダルが片方足を抜け、バランスを崩して前につんのめった。その隙にもう一歩強く地を蹴って、自販機の前にゴールしたのは俺だ。
「ちくしょー!」
サンダルを片手に持ちながら悔しそうな声を出す宍戸。うっすらかいた汗で首筋に後ろ髪がくっついている。
「ハッ、俺様に勝とうなんて100年早ぇ。」
「んなにかかんねぇよ。」
お互いに少し荒くなった息を整えて笑い合う。宍戸は三ツ矢サイダー、俺はコーラの缶を買って、軽快な音を立てた。小さく乾杯をして一気に喉に流し込む。上下する宍戸の喉、明るすぎる自販機のライトに光る黒髪の艶やかさは世界で今この瞬間俺しか知らない。住宅街に静寂が戻る。
街灯の少ない道を月が照らし、宍戸の髪が青紫に、赤に光るようにみえる。月を浴びた宍戸は美しい。
残ったジュースをちまちま飲みながら、少し遠回りをして帰った。
夢のように綺麗だ。
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