ふと、目が覚めた。
ベッドサイドに手を伸ばしてスマホのホームボタンを押す。岳人からの数件のLINEメッセージと、2時48分の文字が浮かび上がってきた。
風のない夜で、いくら快適な跡部邸と言えど日本の高温多湿は強い。日本の夏をまとった空気は、俺が起きたとわかるや否や絡みついてきた。跡部の家でこれだ、今日の俺ん家は地獄だったろう。泊まりに来て良かったと思う。
完全に目が覚めてしまったわけで、体を起こしてどうしたものかと考える。隣では跡部が深く寝息を立てていた。すっと通った鼻筋にぶつかった月灯りが白い肌に影を作っている。少しくらい涼みに行くのもいいだろう、跡部を起こさないようにゆっくりと立ち上がってデカすぎる扉をそっと開けた。
ぺた、ぺた、ぺた。
天井の高い廊下に響く自分の足音がやけに大きく聞こえる。冷たい大理石の床にぴたぴたと触れる足が気持ちいい。チェス盤のような床を、黒の部分だけ踏んで歩いていたら大広間に出た。大広間は月の光で満ちていて、アンティークとガラスの調度品が碧く光って涼しい。吹き抜けになっている天井、広間の丁度ど真ん中だけがガラス張りになっている。敷き詰められた真っ白な大理石の上をそこまで歩いて行って、見上げる。星屑がきらきら瞬いて、まるでガラス窓に砂糖がぶちまけられたみたいに見えた。あ、赤い光がゆっくり動いてる、飛行機だ。足の裏が大理石の温度と馴染んできた。そろそろ戻ろう…
「おわっ!?」
突然右腕と腰に大きな力が加わって後ろに引っ張られた。ぐらっと視界が傾いて、倒れる、そう思った背中を柔らかく受け止められた。
「おいちょっと、げっ」
バランスを崩したままの体をくるりと器用に回されて、正面から抱きとめられた鼻先に、ちゅっと軽い音がした。
「Shall we dance ? My sugar plum.」
俺の了承など待たずに跡部は勝手にステップを踏み始める。3センチ上から注がれる視線に促されて俺も一歩踏み出した。クリスマスの時期に無理矢理覚えさせられた社交ダンスの足型は意外にも(跡部のエスコートが上手いせいもあるだろうが)体にまだ染みついていたようで、ぺたぺたと2人分のワルツが広間に響く。夜は静かすぎて、心臓の音が聞こえそうだ。触れそうなほどの呼吸と、優しく繋がれた手、顔を上げれば氷の目が月に透き通っている。
「悪りぃ、起こしちまったか?」
「構わねぇ。何か飲むか?」
いや、そう言って足を止めた。
「ピアノ、跡部のピアノ。聞きてぇ。」
一瞬きょとんとした表情を見せた跡部が眉を優しく下げて、俺の頰に手を添えて笑う。
「いいぜ、座れよ。」
ちゅっとデコにキスをされた。反抗の言葉を出す前に、ガラスピアノ横にあるカウチソファを指されたのでおとなしく座る。
すっと息を吸った跡部の指が鍵盤を弾いた。流れる音が月明かりと共に広間を満たしていく。ガラスに映った跡部の滑らかな肌と伏せられた瞳。柔らかな音と冷たい光が夏の空気と混じり合う。
「綺麗だな。」
「お前もだ。」
「そういうことじゃねーよ!」
跡部がくつくつ笑って曲は転調した。
アホ、そう言って俺も笑った。
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