明日の約束が今日になる。
「入れよ、あんま綺麗じゃねーけど。」
これでも掃除したんだぜ、そう言って玄関に手をかける。そうだ、今日こそは。
「お邪魔します。」
決意を胸に、宍戸さんの引いたドアの向こうに声をかけた。俺を待ち受けていたのは玄関マットにスンと座ったビーグル犬。
目が合う。
瞬間、ギャンと吠えてびょっと立ち上がった。
「こら!チーズ!!」
飼い主に鋭い叱責を受けた犬は俺に飛びつくすんでのところで身を翻し、すたんと地面に降り立った。
「悪いな若。お前の顔、怒ってるみたいに見えたってさ。」
「すみませんね、目つき悪くて。」
にっと笑った宍戸さんが俺の頰を片方つまんで引っ張った。不機嫌な表情をつくって見せれば、悪ぃ悪ぃと離した手で頰をぺちぺち叩かれる。そこから広がるじわりとした熱は痛みではない。
先に部屋入ってろ、そう台所から叫ばれたので階段を登る。食玩のおまけシールのたくさん貼られた方のドアをガチャリと開けて、宍戸さんの匂いがした。カーペットの上にテキトーに座っておくべきか、いや、ベッドに腰かけても……
「若!!!!氷いるか?」
「っ結構です!」
突然階下から爆音で呼びかけられたから、声が裏返るかと思った。あの人は心臓に悪い。大人しく床に胡座をかいて座る。いつから見ていたのか、チーズが部屋の扉の前に伏せて不思議そうな目をしている。
「なんだベッド座って良いぜ。あと家に普通の煎餅しかなかった。」
足で扉を閉めた宍戸さんが、ローテーブルに麦茶のカップと個装された醤油煎餅をガサッと置いた。
「お気遣いありがとうございます。」
「おう、でよ、これ前言ってたテニス誌の……」
そこからは、まぁ、なんだ。
いつも通りで悪いか。
二つの秒針が急かすように走る。急かすくせにちっとも待ってはくれないし、むしろいつもより早く進んでいるに違いない。意地の悪い時計だ。
プラスチック包装のゴミは溜まって、麦茶は二杯目、いや、三杯目だったかもしれない。テニス雑誌はバックナンバーまで読み終えたし、宿題だって中途半端に手をつけた。
お行儀の良すぎる恋は厄介だ。
夕陽が部屋を満たし始める。本当に、また時間がない。
「あの、」
「ん?トイレ?」
「……違いますよ。」
はは、だよな、そう笑った宍戸さんの耳にふわっと桃がさしたのは夕陽のせいじゃない。ベッドにもたれさせた宍戸さんの背は浮かない。
床に放り出されている手を柔らかく握る。俺より高い体温をもったそれが握り返してくる。
お互いに手の感触を確かめながら、ゆっくりくちづける。触れるだけの挨拶のようなそれ。
「宍戸さん、恥ずかしいんで目閉じて貰えますか。」
「え、あ、おう……!」
ちゅ。
今度はリップ音を立てて、宍戸さんは薄く目を瞑った。今度は秒針より早く、いや、やっと時計が遅く進み始めたのかもしれない。
「ん、…………んっ……。」
だんだんと繋いだ指が絡み合ってくる。喉から響くくぐもった音を俺が飲み込んでやって、遠慮がちに舌が触れた。それだけでじんと頭に甘い音がする。
もう一度、今度は深く……
「亮ー!!お友達来てるの?チーズの散歩は?」
「んっわ!!いっ、今から行く!!!!」
耳元でガンと響く慌てた宍戸さんの声、一気に真っ赤に染まる二人の顔を夕陽のせいにしたい。チーズが外からガリガリと扉を引っかいている。
「……そろそろおいとまします。」
「飯、食ってく?」
「いや、今日は遠慮します。また今度。」
「そっか。じゃあまた来いよ。えっと……」
宍戸さんがまだ繋がっている手をちらと見る。
ちゅっ、宍戸さんの唇に音を立ててから立ち上がってスクールバッグを拾う。すぐに背を向けたからどんな顔をしているかは知らない。
「途中まで一緒に行こうぜ。あと、明日の朝も待ってる。」
後ろからわしわしと頭を撫でられた。暖かい。
「はい。」
分かれ道で手を振る宍戸さんに会釈をして、沈みかけた日に歩き出す。今日も同じだ、そしてまた、また今度が許された。
触れ合った唇を指先でなぞる。明日は彼よりも早くコートに行こう。
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