貴方も私もきっとそう。

「嶺二?」
真夜中だったと思う。もう朝の方が近いような。嶺二の家は重い遮光カーテンで囲われていて、いつだって昼間のようなリビングの照明が時間の感覚をあやふやにする。
ほとんど空っぽの冷蔵庫からオレンジジュースを取り出そうとして、返事がなかった。
嶺二はソファでうたた寝でもしているようだ。
私は当然のように、台所の引き出しから包丁を取り出して彼に近寄った。そっとブランケットをかける時みたいに。愛の形が台所にあっただけ。
嶺二の太腿の上に跨って、静かに体重をかけていく。違和感には目を瞑る。そうやって一人と一人は息をしてきた。世界が見えすぎて恐ろしいから。
生きているその顔に、やっぱりキスをしようか迷った。でもそれが嶺二の救いにならないことは、何十、何百と繰り返したから知っている。私たちは終わりにしなければいけない。
手入れの行き届いた包丁を、両手で握りしめて掲げる。質の良い真っ白な布、その下の皮膚一枚、そして私たちの思考より幾分か美しいだろう臓器の想像をする。
ゆるやかに上下する腹部に狙いを定めて思い切り、振り下ろす。


目が合った。


振り下ろしたのは愛だと信じている。遅すぎたかもしれないし、早すぎたかもしれないけれど。
瞬間、痛みの形に歪んだ眉が美しかった。
こぷ、こぷ。どぷり。
呼吸に合わせて、世界と嶺二の隙間から赤があふれて私の手を濡らす。あたたかい。
私のせいで、そして私のために歪んだその顔はゆっくりと穏やかさを取り戻していく。
微かに口角が上がるのを見た。
下がった眉の下、嶺二の瞼が持ち上がっていく。
永遠みたいな速度で。
そうして、もう一度目が合った。
やっと貴方の瞳の色を知る。安堵。
嶺二の目にあったのは間違いなく安堵で、愛されるってこういうことだって信じたかった。

ごぷり。

ぬるついた柄を掴み損ねて手が切れたが、もう痛いのは慣れた。
私の手のひらから流れ出たのは嶺二と同じ色だった。やっぱりそうじゃん。
混ざる。とける。流れる、まざる、溶ける。どこまで私で、どこまで嶺二だったんだろう。ながれてまざってとけていく、初めてひとつになった。はじめから同じのはずなのに。どうしてでしょうね。

「嶺二」

今度は上手く掴んで、思い切り引き抜く。
嶺二の腕がゆらりとこちらに向かってきて、私の頬に触れる。親指の腹で優しく撫でられる。
嶺二の形のいい唇が、言葉の形に動いて意味になった。
もう一度振り下ろした。
もう一度、嶺二の唇が同じ形に動いて、目を閉じる。
私の頬から魂が剥がれ落ちていくのが、ロマンチックなスローモーションに見えた。美しい肉塊。

秒針が文字盤を滑る、カーテンの隙間が淡く光る。
温度を失っていく血溜まりと乾いてひりつく血液が、どちらのものかわからないことが救いのように思える。
握りしめた手は固まっていて、私の手の先ごと包丁になったみたいだ。刃先を自分に向ける。


ガチャン


聞き慣れた解錠音。そのせいで一瞬遅れてしまった。今なのに、今しかないのに動かない腕。ああ、ひどいのって誰。
私は嶺二をどうしてこんなに、愛してるんだろう。嶺二の匂いがする、ビートルの助手席を思い出す。
土足のまま廊下をがつがつ走ってくる音。寝室の戸を開ける音。また足音。化け物に似ている花、その名を叫んでいる。
彼が走り抜ける廊下が終わらなければいいのに、彼がリビングのドアなんか開けなければいいのに。
明日なんて来なくていいのに。

ねえ同じ、赤い、赤い、私達の花言葉ってなんだっけ。
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