宍戸さんと歩くのが好きだ。宍戸さんの斜め半歩後ろをついて行くのが好きだ。いつも何かを急いでいるように、少しでも早く速く前へ前へ、でも決して焦っているわけでも追われているわけでもない…そんなスピードで歩く彼に大股でついて歩くのが心地良い。体格差を物ともせず、うかうかしているとすぐにひらいてしまう宍戸さんとの距離を追いかける俺をみて、忍足さんは犬のようだといつも苦笑していた。
「長太郎」
少し後ろに首をまわして俺を見る、その目尻に目一杯寄せられた瞳の形を、もう何度見たかわからない。何度見ても息を呑んでしまうから、返事が一瞬遅れてしまう。缶ビールの入ったレジ袋を後ろ手に持った宍戸さんが、ん、と顎で俺を指した。
「ほら、お釣り。さっきの」
差し出された拳の下に手の平でお皿をつくる。開かれた手からじゃらりと音を立てた小銭は宍戸さんの体温のおかげであたたかく、少し湿っていた。その熱が逃げないようにグッと握りこんで礼を言う。おう、と口の端を上げた宍戸さんはまた前を向いて歩き始める。玄関先でつっかけてきた2人ぶんのサンダルがざかざかとアスファルトにたてる音、誘蛾灯がほろほろ瞬く夜の散歩道。今にも右肩からずり落ちそうなタンクトップ姿の宍戸さんの、あの頃より伸びた髪は後ろでちょこんと纏められていて、仲間に入りそびれた髪はうっすら浮かんだ汗のせいでうなじにくっついている。歩く速度に合わせて揺れる髪は時々赤や紫に反射して見えるような気がする。まるでカラスの羽のように鈍く色を変えて光る髪の流れ、その艶やかな美しさに見惚れる。
「夜なのにあちぃな、髪切りてぇ」
がしがしと頭を掻きながら宍戸さんが言う。魅入っていた墨の川の流れが少し乱れた。
「えっ、また切っちゃうんですか?今年は伸ばすもんだと…」
「それ、滝にもおんなじこと言われた」
前髪を指に巻きつけて宍戸さんが応える。
「俺は長いのも好きですよ。」
「そうか?ハハ、ありがとよ!」
カラカラ笑う宍戸さんを見て、あぁ切っちゃうんだろうなぁと思う。いつだって大切なことは1人でやってしまう人だから。他人に頼らず自分の身を粉にしてまでも何かを掴む姿勢を俺は愛しているが、少しは自分の価値を分かって欲しいものである。自分で考えているよりもあなたはずっと大切にされている。他人にとってみれば大切な大切な彼の一部を、彼はいとも簡単に投げ打ってしまえる。…もしかしたら俺が宍戸さんをどれほど大切にしているか伝わっていないのではないか?これは発想の飛躍だと考え直す。たかが髪を切る話…不満なのではない、不安なのだ。なんだか物悲しい気分になってしまって、この気持ちの正体が掴めぬままふと視線を時計にやる。なるほど、昔の習慣とは意外と体と心が覚えているものだ。日々特訓を重ねていたあの中学時代、いつだってサヨナラはこの時間だった、いつだってこの時間は苦手だった。2人で近場のナイターコートから出て、また明日、と拳を突き合わせる。中学生が0時まで外にいるなんて立派な補導対象だから、お互い大人に見つからないように、という意味も込めて。ニッと白い歯を見せて笑うそのいたずらっぽい表情に心臓が跳ねた。いつも違う箇所に傷をつくる彼にハラハラしていたが、この顔だけはずっと同じ場所にある。変わらないものに安心する俺にとっては1番のご褒美だ。暗い夜道を小走りに駆けていくその背中を見届けてから自分も家へ向かう、練習後の充足感とまだ冷めやらない熱、快い疲労感と共に見上げる星空はため息の出るほど綺麗で、どこか少し寂しかった。くさい言い回しだとあきれる、宍戸さんの苦手な恥ずかしい詩とやらで何度も見た言葉の羅列…なのだが、特別な人との時間を区切る瞬間瞬間がこんなにも心を動かすということを、自分は初めて知った。明日の朝も昼も夜も会えるのだといくら自分に言い聞かせても、午前0時の心に、夜風は涼しすぎて沁みる。時間など止まってしまえばいいと何度思ったか知れない。宍戸さんといる時間だけが永遠になれば良いと願ったのも。この夜もずっと続けばいい、今日帰る先は同じ場所、俺の家だと分かっていても。
「宍戸さん」
「あ?」
機嫌が良くても相手を威圧するかのような声で返事をする癖は相変わらずで、そのガラの悪さも宍戸亮を象っている、そう考えると愛おしく思わずにいられようか。俺はこの音を大好きだから、何度も何度も名前を呼んでしまうのだ。
「クロノスタシスって知ってます?」
「くろ……?なんだそりゃ」
ピシッと軽快な音がして、宍戸さんは少しだけ溢れたビール泡を舐めとりながら首をかしげた。
「時計の針が止まって見える現象のことらしいですよ。」
「へぇ、」
お前物知りだな、なんて笑いながら缶の中身を一口あおる。こくりと上下する喉を見ていると、胸の奥から自分の体温が上がっていくのを感じる。初夏というには生暖かく、6月の湿気を含んだ風に混じらせて、熱い塊を吐き出してしまう。
「…宍戸さん、好き、好きです」
「ばっ……お前なぁ!いきなり照れくせえこと言うんじゃねぇよ!」
勢いよく缶を口から離して俺に向き直り、素直じゃない態度を表すのが素直で可愛らしい。真っ直ぐ俺に向き合った宍戸さんににこりと微笑みかけると目を逸らされてしまう。宍戸さんはしばらく口の中で何やらもごもご言っていたが、地面を見つめながら汗ばんだ前髪をくしゃっと掴んで口を開ける。
「あー……あのよ、いつも長太郎ばっか言うけどよ…なんだ、その、俺だってなぁ、」
あーくそっ、と呟いて俺に2、3歩詰め寄りクロスを引いた。屈め、の合図だ。完全に宍戸さんと同じ目線になる前にもう一歩前に踏み込んだ彼の声がしっかりと耳に吹き込まれる。
「俺だってお前に負けねーくらいお前のこと考えてる。だから、心配すんな」
すっと身を引いた宍戸さんは、大丈夫だから、と少し眉を下げて困ったような照れたような顔をしてから拳を突き出してニッと笑った。今。今この瞬間の全てをそのまま固めてしまいたい!この一瞬を小さなガラス玉に固めこみ閉じ込めてしまえたらどんなに、どんなに!自分がどんな顔をしているか想像もつかない、ただただ宍戸さんを見つめて、お辞儀をするように屈んだ体も起こせずに、愛おしさ、安堵感と幸福…一気に体に流れ込む感情に縛られる。ほら行くぞ!と胸を小突かれて、さっきよりも早足に宍戸さんが歩き始めたので、慌てた足が引っ張られるように大きく踏み出す。前を歩く宍戸さんの、髪のかかった耳はほんのり甘く染まっている。あぁ、俺はこの人を愛しているんだ。俺はこの人を愛して良かった。この人に愛されて良かった。
「はい、宍戸さん!」
永遠なんてないことは中学時代に嫌という程思い知らされた。それでもいい、一瞬でいい、錯覚でもいい、2人きりの永遠が欲しい。あぁ今夜だけ。今夜だけは、歩き慣れた家まで帰るこの道を、忘れてよ、ねぇ、宍戸さん。




【WBGM:きのこ帝国/クロノスタシス】